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早坂類について さいかち真 「読みのコード」についてのいくつかのコメント
平成十五年版の角川『短歌年鑑』に載っている「回顧と展望」「平成の短歌に思う」の諸家の文章は、それぞれにおもしろかった。巻頭は佐佐木幸綱の「読みのコード」という文章で、早坂類が写真家の入交左妃と共同で出した歌集『ヘヴンリー・ブルー』のはじめから五十首めの歌を論ずるところから始められている。
壊れてよ もっと壊れて どこまでも壊れ果ててよ 解体屋です (早坂類)
この歌の「解体屋」が現実の職業のことではないのだろうといった吟味を経たうえで、論者はこの作品のうしろに作者という超越的記号を立たせることはできないのだろうと結論づける。そうしてこの歌を「自己破壊願望の歌」と読むところから一歩進んで、いかにも不謹慎ではあるが九月十一日の貿易センタービルの事件のコードでこの作品を読むことも可能だ、という事をあえて示してみせる。私は早坂類の作品をそういう文脈で試読する論者の挑発的な試みに対しては抵抗がある。そうしてこの作品にまったく「作者を代入しないで」読むことを作品がもとめているとも思わない。最近早坂が刊行した『ルピナス』という自己投影の要素が強く感じられる小説を読んでいるので、よけいにそう思った。『ルピナス』は精神に負債のような障害を負った人間が、生き難いなかで何とかして自分を生きる側へと引き寄せようとする願いがこめられた小説作品だった。掲出歌は大空を見上げながらその空漠とした広がりに身を投げるような自己解体の欲求をのべたもので、「自己破壊」という読み方はちょっとちがう。「破壊」でなくて「解体」なのだ。そして、この「解体」は悪いことばかりではなくて、自己放脱、空無へと拡散してゆくことへの願望を語ることに伴う自己充足の感覚を表現してもいるのである。
とは言いながら、あの文章でほかに渡辺松男や穂村弘の作品を引用しながら論者が指摘したのは、こうした「作りをラフにして、自由なコードで読まれることを前提にした作」については、こういった曲解に近い解釈だって論理的には成立してしまうのだということである。ここには佐佐木幸綱の現在の短歌の状況に対する批評があらわれている。
続けてこの文章を吟味してみると、私が右にのべたような異論が出ることを論者はあらかじめ予想して、さらに次のように畳み掛けてゆく。
「もちろん、どんなコードにも乗せないで、それ自体として読んでほしい、読むべきだ、という立場もあるだろう。『壊れてよ』とは、『何が』ではない、という読み。空欄はない。自己破壊願望でもないし、ましてニューヨークの貿易センタービルは無関係である。ビル、食肉、車等とも無関係な、ただ言葉としての『解体屋です』、という読み。
言葉を、社会や時代というコードから切り離して、試験官の中でおこる化学反応を楽しむように楽しむ、という立場である。(中略)純粋に言葉だけの世界。言葉への閉じこもり。」
さらに重ねて論者は次のように述べる。
「古典和歌が、本歌取りという禁断の木の実を口に入れてしまったために、独善の迷路に迷い込んだ事情を思い起こす。これは短歌という短い詩型、長い歴史を持つジャンルの話である。試験官やシャーレの中の楽しみは自分だけの楽しみとしてとっておくか、実験の域にとどめておく方がいいように思う。」
こうやって古典和歌まで持ち出されてみると、佐佐木幸綱が構築した重厚な論陣を前にして浅学な私はたじろくのだが、早坂類やそのほかの作者の既製のコードに乗せて読みにくい作品について、「試験官やシャーレ」の中の言語実験というように単純にくくってしまっていいものなのかどうか、ということについてはやはり疑義を呈しておきたい。さらに早坂類の作品は短歌のジャンルの中では突出した先端的な試みであり、その分、批評的な位置付けが困難であることから、よけいに手続きは慎重に行わなくてはならない思うのだが、これを現在の短歌の状況の多様化のひとつとして許容することはできないものなのか。 私自身、別に現在の若手の作者の作品を全面的な賛意をもって支持しているわけではない。佐佐木幸綱のいらだちはよくわかるし、危惧や反発、はたまた憎悪や怒りの幾分かは私も共有している。しかしながら、早坂類の作品は現在の若手の中では最良の部分に属し、また問題の歌集は早坂類という特異な作者の個別性、個人性に立脚していると感ずる。その点において、冒頭の作品は「私」というコードを入れないで読むことをもとめているのではないかという読み方については、頭ひとつ上を撃ち抜いた批評として上等であるとは思うが、やはり留保つきで耳を傾けることにしたい。こういう歯の奥にものが詰まったような言い方しかできないのは、作品が実際にそういう難しいところに入り込んでしまっているがゆえである。これをまともに論じようとすれば、批評もまた難しいところに入り込んでゆくのは必然の成り行きである。これは袋小路なのかもしれないが、袋小路とても歩いてみなければ袋小路かどうかは知れないのでないか、とも思う。
次に問題の早坂類の歌集を読んでみたい。冒頭の一首。
三月の三日月なにもなしえない道のはたてのそらの切り傷
これを「私」はなにもなしえない、無為だ、というメッセージとして読む。空の涯に見えるすじ雲、もしくは地平線はまるで切り傷のように思われる。二首め、
なにもないすることがなにもない何もないです 前略かしこ
これも同様な無為のメッセージとして読む。「みがかれた車たちが幻のようにながれてゆきました/とりたてて美しいことはなにもありませんでした」という詞書があって、三首め。
氷柱の真芯に眠るいっぽんの真青の偽足 ぼくのこいびと
詞書は「私」の生についての感覚を端的に表明している。無為な「私」は、流されて生きている。「偽足」は「義足」の誤植ではない、だろう。「氷柱の真芯に眠るいっぽんの真青の偽足」は、生の経験からの「私」の遊離感を表明しているのではないか。四首め、
いのこづちつけたまま行け
手のなかの
無色透明実用孤独
三行表記の歌である。一、二句の命令形と、「無色透明実用孤独」という響きの自己を客観視して突き放す、やや自棄的な調子が対応している。十首め、
黒色の落書きは叫ぶ わたしを消してわたしを消してわたしを消して
叫んでいるのは、「私」である。自己滅却願望、自死願望とも言えるし、自死願望そのものに消えてほしいと思っているとも読める。それは同じことの表と裏だ。十二首め、
巨大な透明感がやって来て不意に君、と思った瞬間に風が発った
相聞歌的な雰囲気の中に登場する「君」は、「生」とか「生きること」と言い換えてもいいと思う。「巨大な透明感」が何なのかはわからない。「私」を包み込むような肯定的な空無である。十六首め、
生まれては死んでゆけ ばか 生まれては死に 死んでゆけ ばか
生まれるものは、何でもいい。もろもろの願いや意志、そのほかに自分が生き続けること自体への感傷である。案外に石川啄木などとも地続きのものである。二一首め、
与えあう 魂の家族 奪いあう 肉の家族 降る しぐれ雪
家族についてのきわめて抽象的だが、祈りにみちた歌である。「私」は家族を肯定している。二二首め、
真ん中をいきてゆくこと
ひろびろと
ひとのいのちのちからは刹那
これは生を肯定する歌である。こうやって「生きること」そのものについての思考を歌にせざるを得ないところに、作者の特異さがある。自分はどうにも生きにくい、と感じつつ生きているからこそ、こうした作品も生まれてくる。二三首めには、「さあ、生きましょう」という詞書があって、これは作者の小説『ルピナス』にこめられたメッセージと同じものだろう。
僕達の紙飛行機はどこまでもただよいながら流れていった
これは、メルヘン風の書き割りの外見を持ちながら、このようにやわらかに肯定的な風に包まれて生きていきたいという願望を表現した歌なのである。だが、三二首め以降の五首は、作者の内側で暴れまわる凶暴なものに形を与えようとしている。
その破れ目は黒 その破れ目は声です 柵を食い破ってその声は来る
「黒」は自己否定、死への衝動と言い換えてもいいだろう。三三首めには、次のような詞書がある。「おまえの地下から軍隊が押し寄せ/おまえの足裏からおまえを占領し/おまえの髪を染めかえて出てゆく」。これは同じ時期に刊行した小説『ルピナス』で精神を病む者の姿を迫真のリアリティーをもって描きだした作者と無関係の言葉であるとは思われない。抗い得ぬ衝動、真っ暗な思い。
水の底 闇の奥底 肉の底 鍋底 火の底 つぎつぎのぞく
しかし、語られている内容をどう解釈するのか、ということとは別に、続く三五首めは言葉の持つ詩的な衝迫力にまず打たれる。
漆黒のウェディングドレスが身体じゅうから滲み出る 軍隊のように
この歌の左側に、次の詞書がある。「熱心に料理して食べてしまう/その火の服をその火の靴を/彼女は」。漆黒のドレスは「火」なのだろうか。「軍隊」も「火」なのだろうか。この「彼女」が誰なのかは、わからない。「彼女」は作者の自己を投影した「私」だろうか。わからない。しかし、「彼女」に作者の自己投影を読み取るのなら、作品の中にかすかな「私性」を感ずることはできる。それが現実の作者であるかどうかは、もはやどうでもよい。読者は、自分自身の内側に「漆黒のウェディングドレス」のような情念が渦巻いていることを共感的に理解する。それはリルケが『ドゥイノの悲歌』において恋をする青年のなかに暗い種族の意志を読み取ったのと同じような、不可抗的な人間存在の暗さでもある。そこに作者の固有性や特異性を重ねてみることも可能だということを私はここで付言したいがために長々と書いたのである。四五首めと、四八首め、
その道化者は地上の花嫁をさがしている 彼は ワルツを踊れる
へヴンリー・ブルー 花であり世界でありわたくしであり まざりあう青 一首めは、なつかしいトーマス・マンの小説『トニオ・クレーゲル』を連想させると同時に、「ワルツを踊れる」者への揶揄の気配を含んでいる。二首めは、生に対して肯定的であり、世界の中に溶け込み拡散してゆく自己への夢想として読むことができる。早坂類の作品は、生と死の二元論的な対抗を軸として展開してゆくモノローグとして読むならば、比較的理解しやすいものになるだろう。こうした作品が並べられたあとに、冒頭に論じられた「解体屋」の歌が来るのである。右のように一冊の歌集を前にしてみるならば、自動車の解体業や貿易センタービルのコードをもって読むことは、とうてい不可能な一首であることが自ずと了解されるのではないだろうか。さらに早坂類の歌を「試験官やシャーレの中の楽しみ」とだけ断じてしまうのは、性急にすぎやしないだろうか。ここには、戦後詩の方から迂回してきた言葉の技術の短歌への導入があり、それは短歌の可能性を広げこそすれ、縮小するものとは言えないように思われるのである。
「短歌WAVE」3号 掲載
さいかち真 評論集『生まれては死んでゆけ』(北溟社、2006年)所収
プロフィール撮影/イワハシ・ヨシカズ
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